Masuk颯太の言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。
一週間のうちに何度も「偶然」会ったこと。毎回、好みに合った差し入れをくれたこと。そして――。
「お前が高城と別れた直後じゃないか」
真尋は通勤電車の中で、吊り革を握りながら考える。
いや、直後ではない。響と別れたのは半年前で、晃が引っ越してきたのは二か月前だ。四か月も間が空いている。それに差し入れの味付けが好みだったのは、たまたまだろう。真尋は標準的な味が好きなだけで、とりたてて特殊な嗜好があるわけじゃない。
そもそも、ゲイバーに連れていったのは颯太だろう。出会いの場を作っておいて、いざ出会ったらいちゃもんをつけるなんて、どういうことだ。
窓の外を流れる景色を、ぼんやりと眺める。五月の朝の光がまぶしい。
いや、わかっている。颯太はいつだって真尋の味方なのだ。同い年なのにまるで保護者みたいに、ときには兄のように守ってくれる。響との別れで真尋がぼろぼろになったのを、一番近くで見ていたのも颯太だ。響のSNSを深夜に見ては泣いていた時期、隣で黙って缶ビールを開けてくれたのは颯太だった。
だから心配してくれているだけ。それはわかっている。
やっぱり、一ノ瀬さんは怪しいのだろうか。
そんな疑念が胸の中でむくむくと膨らんでくる。けれど――。
その日の帰り道に、不安はあっさりと吹き飛んだ。
「真尋さん、おかえりなさい」
マンションの廊下で、晃がちょうど部屋から出てきたところだった。メガネにスウェット姿。手には例の紙袋を提げている。
「こんばんは。いつも差し入れ、ありがとうございます」
「いえ。今日も作りすぎちゃって、ちょうど持っていこうと思ってたんです」
紙袋を差しだす晃の顔は、ニコニコとうれしそうだ。真尋は一瞬断ろうかと思った。けれど、あの切れ長の目がやわらかく弧を描くのを見ると、「いいです」という言葉が喉の奥に引っ込んでしまった。
「いつもすみません。いただいてばっかりで……」
「いいんですよ。食べてもらえると作った甲斐があるんで」
「……ありがとうございます」
紙袋を受け取る。指先はかすめなかったけれど、紙袋ごしに料理の余熱がほのかに伝わってきた。コンビニ弁当ばかりの食卓に、誰かが作ってくれた料理が並ぶ。それだけのことなのに、帰宅後の楽しみがひとつ増えた気がした。真尋は、自分でもよくわからない感情を持て余した。
「そういえば、晃――一ノ瀬さんって、お家ではメガネなんですね」
危うく名前で呼びそうになって、慌てて言い直した。まだ「晃さん」と呼ぶのは早い。あの夜だけの呼び方だ。
「ああ、これですか?」
晃はメガネのフレームに手をやった。黒縁のウェリントン型。かけているのと外しているのとでは、印象がまるで違う。メガネがないと端正な顔の造りがそのまま出て、人目を引くタイプの美形だ。メガネをかけると、少し人懐っこく見える。どちらが素なのだろう。
「視力が悪いんで、家ではメガネなんですよ。仕事中はコンタクトですけど」
「なるほど。変装かと思いました」
晃は一瞬目を見開いて、それからふわりと笑った。
「なんで変装なんてする必要があるんですか」
「いえ、深い意味はないです」
つい口角が上がる。晃のリアクションは大きくて、見ていて飽きない。
やっぱり颯太の心配は杞憂だ。この人が、そんな裏のあることをするとは思えない。
その翌日、エレベーターホールで晃と一緒になった。
晃はダークグレーのスーツをぴしっと着こなしていて、メガネなしのアップバング。昨夜のスウェット姿とのギャップに、真尋は不覚にもどきっとした。
「一ノ瀬さんも仕事帰りですか?」
「ええ。今日はクライアントとの打ち合わせで、遅くなっちゃいました」
「お仕事、広告関係でしたっけ」
「広告代理店です。企画やプレゼンが多くて」
「大変そうですね」
「まあ、好きでやってるんで」
晃は口角を上げて笑った。犬歯がちらりとのぞく。その楽しそうな横顔に、真尋は親近感を覚えた。自分だって本が好きで書店員をやっている。好きなことを仕事にしている人間の目は、似ているのかもしれない。
エレベーターを降りて、部屋の前でそのまま立ち話になった。本の話がはじまると、もう止まらない。
「この前書いたPOPが好評で、本の売り上げも上がってきたんです」
「いいですね。真尋さんのPOP、やっぱり力がありますよ」
「そんな。大げさですって」
「大げさじゃないですよ。あのPOPに書かれてた一文で、俺は本を買おうと思ったんですから」
まっすぐな目で言われて、返す言葉が見つからなかった。耳の先がじわりと熱くなる。晃に気づかれないよう、さりげなく前髪で隠した。
「一ノ瀬さんは、POPのどこが好きなんですか」
「うーん……書いている人の温度が見えるところ、ですかね。この本をどれだけ好きか、どこに感動したかが、短い文の中にちゃんと入っている」
真尋はどきりとした。POPを書くとき、まさにそのことを意識している。自分の「好き」がちゃんと伝わる文章を書きたいと、いつも思っている。それを初めて言語化してくれた人がいた。
気づけば三十分も話していた。廊下を通る住人が怪訝そうな顔で真尋たちを見ていって、ようやく我に返る。
「わ、すみません。つい話し込んじゃって……」
「全然。真尋さんと話してると時間忘れます」
その言い方が妙にまっすぐで、真尋は「はは」と曖昧に笑ってごまかした。
その翌日も、さらにその翌日も、廊下で晃と顔を合わせた。立ち話の時間は日に日に長くなり、お互いの好きな本の話だけでなく、仕事のことや日常の些末なことまで話すようになった。晃は聞き上手で、真尋がどんなに細かい話をしても、退屈そうな顔をしなかった。
あの夜のことは、ふたりの間でもう話題に上がらない。体の関係は一度きり。今はただの隣人で、本好き同士の知り合い。そういうことにしてある。
だから晃が「もしよかったら今度、うちでご飯食べながら話しません?」と誘ってきたとき、真尋はすぐには返事ができなかった。
廊下での立ち話を、他の住人に見られたことがある。廊下は声が響くのだろう。だから、部屋でゆっくり話したほうがいい。理屈ではそうだ。
けれど。部屋に入ったら、ふたりきりの密室だ。
真尋は「また今度」と曖昧に返した。晃は少しだけ残念そうに笑って、「いつでも言ってください」と引き下がった。押しつけがましくないところが、またやっかいだった。
「あー、咳が止まらない……」
ある日の夜、仕事から帰ってきてからずっと咳き込んでいた。喉がイガイガして、声をだすたびにひっかかる。季節の変わり目にはいつもこうだ。風邪をひいたらしい。
明日も仕事だから休むわけにはいかない。この時期は新刊の入荷が多く、POPを書かなければいけない本もたまっている。薬箱を探したが、前の風邪で使い切ったのか、中は空だった。
仕方ない。湯船に浸かってあたたまって、さっさと寝よう。はちみつ湯でも作ろうかと思ったが、はちみつも切らしていた。
そう思っていたとき、インターホンが鳴った。
こんな時間に誰だろう。モニターを確認すると、晃が映っていた。パジャマの上にコートを羽織っている。真尋は慌てて玄関を開けた。
「一ノ瀬さん、どうしたんですか。こんな時間に」
「これ」
晃はおもむろにコンビニの袋を差しだした。中には風邪薬と、はちみつのパック。
「壁越しに咳が聞こえたんで。はちみつは喉にいいって言いますし」
「……え? わざわざ買いに行ってくれたんですか?」
「ドラッグストアはもう閉まってたんで、コンビニですけど」
真尋は思わずくすっと笑ってしまった。
「なんで笑うんですか」
「いや、だって。距離感おかしくないですか、一ノ瀬さん。壁越しに咳が聞こえたからって、夜中にコンビニ走るって」
晃はメガネの奥で目を泳がせた。
「そう……ですかね。ひとり暮らしだと、具合悪いとき困るかなと思って」
「それ、お互いさまでしょ」
「ははっ。そうですね」
晃が笑うと、メガネが少しずれた。それを直す仕草が、なんだかおかしくて、あたたかかった。
「今日は薬飲んで、あったかくして寝てくださいね」
「……ありがとうございます」
コンビニ袋を受け取ろうとしたとき、晃が「あ」と声を上げた。
「もうひとつ」
「まだなにかあるんですか」
「俺のこと、晃って呼んでください」
「……え?」
「最初にお会いしたとき、そうお伝えしたと思うんですけど」
真尋は黙った。確かにあの夜、「晃って呼んで」と言われた。背中がぞくりとした夜のこと。でもあれは酒の勢いで――。
「だめですか?」
眉を下げて、悲しそうな顔をされた。メガネの奥の目が、犬みたいに潤んでいる。あの切れ長のクールな目が、こんな顔をするのかと思ったら、断れなかった。
「……じゃあ、晃さん」
名前を口にした瞬間、晃の表情が変わった。
「はい、真尋さん」
メガネの奥の瞳がぱっと輝いた。子どものようにうれしそうだ。仕事のときのクールな晃とのギャップが、反則すぎる。こんな顔を見せられたら、こっちまでうれしくなってしまうじゃないか。
「じゃ、ゆっくり休んでくださいね」
晃はうれしそうに手を振って、自分の部屋に戻っていった。
ドアが閉まったあと、真尋はコンビニ袋を胸の前で抱えたまま、しばらくその場に立っていた。
全然、怪しくないじゃないか。むしろ、俺のことを気にかけてくれているだけだ。
壁越しに、かすかにドアが閉まる音がした。それから少しして、鼻歌が聞こえてきた。いつもの低いメロディだ。
じんわりとあたたかいものが、胸の底にたまっていく。
晃のおかげで、風邪はすぐによくなった。引きはじめに対処できたのが大きい。
体調が戻った数日後、仕事中に棚の整理をしていると、聞き慣れた声がした。
「真尋さん」
振り返ると、スーツ姿の晃が立っていた。コンタクトにアップバング。仕事帰りらしい。
「晃さん、いらっしゃいませ」
「そのPOP、真尋さんが書いたんですか?」
晃が指さしたのは、新刊の日本文学の棚に貼ったPOPだった。
「ええ。海外文学以外のPOPも書くんですよ」
真尋がほほえむと、晃もやわらかく目を細めた。
「真尋さんの選ぶ本、全部好きです。これ、いただきますね」
そう言って本を手に取り、レジへ向かう。「じゃあまた」と手を振る横顔に、真尋は小さく手を振り返した。
晃が選んだのは、真尋がPOPを書いた本だった。真尋の言葉を信じて、まだ中身も見ていない本を買ってくれた。
響は、真尋の選ぶ本に興味を示したことがなかった。「またその話?」と流されるのが当たり前だった。だから途中から、響の前で本の話をすることをやめた。好きなものの話を好きな人にできないのは、思った以上にさびしいことだった。
でも晃は違う。真尋が本の話をするとき、目を輝かせて聞いてくれる。自分のPOPを読んで、その本を買ってくれる。それがどれだけうれしいことか。
もしかしたら、相性がいいのかもしれない。
そんなことを思った瞬間、あの夜のことが頭をかすめた。確かに、そっちの相性もよかった。よかったけど――それとこれとは別だ。
雑念を振り払おうと棚の整理に戻っていると、同僚の山田さんが近づいてきた。
「柊さん。さっきのあのお客さん、最近よく来るんですけど」
「うん」
「柊さんがシフトの日しか来ないの、知ってました?」
手が止まった。
「……え?」
「わたし、気になって確認したんですけど。柊さんが休みの日は来てないんです。一回も」
心臓がどくんと鳴った。
そんなはずはない。だって、晃さんは本が好きで、栞堂に通ってくれているだけだ。たまたまシフトが合っていただけで――。
でも、「一回も」。
同僚の言葉が頭の中でくり返される。一回も。一回も来ていない。
それはつまり、晃が栞堂に来るのは真尋に会うためだということにならないか。
シフトを、知っているのだろうか。
背筋を、冷たいものがゆっくりと這い上がった。
真尋の仕事終わりが晃の退勤時間と重なる日は、必ず晃が栞堂に迎えにきてくれる。一緒に帰るのが当たり前になっていた。 隣人だったときも同じ場所に帰っていたのだが、今は同じ部屋に帰る。玄関に入ると、「ただいま」「おかえり」をお互いに言い合って、キスをする。その瞬間がうれしくてたまらない。 今日はまさに、晃が迎えにくる日だった。 腕時計を確認すると、退勤時間まであと十分。もうすぐ晃に会えると思うと、真尋は商品補充にも熱がこもった。毎日部屋で顔を合わせているのに、おかしな話だ。 ワゴンに乗せてある本を次々に棚に入れていく。時間いっぱいまで、できるだけ本を補充しようと真剣に取り組んでいると、ととと、と足音が聞こえた。この足音の主は、POPイケメン追跡班の班長、山田さんだ。追跡する必要はなくなったはずなのに、どうしたのだろうか。「柊さん、柊さん」 振り向くと、やはり山田さんがそこに立っていた。「どうしたの?」「POPイケメンさん、もとい、柊さん彼氏さんが来ていますよ」「ああ、今日くるって約束してたから。外で待ってるんでしょ?」「いえ。店内にいらっしゃいます」「え?」 付き合いはじめてから、店にくるときには事前に連絡をくれていた。今日のように帰る時間が同じときは、いつも外で待ってくれている。なのに、急にどうしたんだろうか。「なんだか、不審な動きをしてるんですよね」 山田さんはわざと声をひそめてみせた。眉間に皺を寄せて、追跡班としての職務に戻ったような顔だ。「不審な動き?」「とりあえず、ご自分の目で。班長としてお伝えするのは、ここまでです」 山田さんはそれだけ言うと、踵を返して別の棚へ消えていった。班長の仕事はここまで、ということらしい。 別に、不思議なことではないはずだ。本好きの晃のことだ。真尋を待っているあいだに、おもしろそうな本を物色しているのかもしれないから。 真尋は手早く補充を完了して、ワゴンをバックヤードに置きに行った。そしてそのまま店内の在庫を確認するふりをして、
新居に引っ越して一週間が経った。朝、目を覚ますと隣に晃がいる。そのたびに、これは夢なのではないかと思うし、毎朝幸せな気持ちになる。まだこの状況に慣れない自分に呆れさえするが、それと同時に毎日が新鮮で愛おしい。 壁の向こうから聞こえる気配ではなく、肌で感じる体温。それが当たり前になるのに、もうすこし時間がかかりそうだ。 真尋は横ですうすうと寝息を立てている晃を起こさないように、そっとベッドを抜け出そうとした。ふいに手首を掴まれて、晃の胸のなかに引きずり込まれる。「おはよう、真尋」 晃の胸に抱きしめられて、朝から心臓に悪い。けれど、これも新しい日常なのだ。「おはよう、晃」 名前を呼び捨てるのにも、ようやく慣れてきた。最初の数日は、口を開くたびに「真尋さん」「晃さん」と「さん」がつきそうになって、お互いに笑い合ったものだった。今はもう、すんなり呼べる。それだけで、世界がすこし新しくなる。 晃の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。そうすれば、晃は同じか、それ以上の力を込めて抱きしめ返してくれる。いつも同じ気持ちでいられるのが、心地いい。「なんでひとり先に起きようとしてたん」 すこし拗ねた声が、頭の上から降ってきた。先に起きようとしただけだ。たったそれだけのことでも、一分一秒でもくっついていたい気持ちがある晃には、許せないのだろう。 真尋はくすくすと笑った。「だって、気持ちよさそうに寝てたよ?」「起こしてくれたらええやんかぁ」 甘えた声。一緒に暮らすようになって、晃は甘えるのが好きなのだと知った。それは真尋も同じで、甘やかしてほしいときには晃に甘やかしてもらい、晃が甘えたいときには、たっぷり甘やかす。持ちつ持たれつの関係だ。「睡眠は大事。ちゃんと寝れるときは、しっかり寝ないと」「ほな、もうちょい一緒に寝よ?」「だめ。今日は俺、出勤時間早いから」「ええー。しゃあないなぁ」 晃は真尋にチュッと音の出るキスをすると、むくっと起きた。明らかに眠たそうな顔をしている。寝起きの晃の髪は、相変わら
真尋はベッドにごろんと横になった。天井をぼんやりと見つめる。この部屋に思い入れは特にない。ただ、職場から近くて、安い物件だっただけだ。けれど実際に明日、この部屋を離れると思うと、なんとなくさみしく感じた。 新居では、晃とふたりで寝るためのダブルベッドを購入した。このシングルベッドも明日には処分する。この狭いベッドで、何度も晃と愛し合った。嫉妬に駆られて、無理やりに近い形で抱かれたこともある。恋人になってからは、大切に、やさしく、宝物のように扱ってくれた。 シングルベッドは狭すぎて、大人の男がふたりで寝るには窮屈だった。けれど、くっついて眠ることができた。いつも晃の大きな胸のなかに抱かれて眠るのが、好きだった。ベッドが大きくなっても、またくっついて寝たいな。そんなことを考えていたら、急に腹の奥が疼いてきた。「やばっ。明日朝早いから、早く寝たいのに」 スウェットの上から股間に手をやると、ゆるく兆しはじめている。晃の息遣いや手の動きを想像してしまったからだろうか。このまま寝ても、きっと中心がさらに熱を持って、目が冴えるに決まっている。 仕方ない。抜くか。 下着のなかに手を入れようとしたとき、スマホが震えた。画面を確認すると、晃からの着信だった。真尋はそれを見てビクッとした。 ――晃さんのことを想像して抜こうとしてたの、バレた? ドキドキしながら電話に出た。「晃さん?」「今、大丈夫?」「う、うん……」「ごめん。明日早いから、もう寝るとこやったやろ?」「ま、まあ、そうなんだけどさ……」 歯切れの悪い返事しかできない。晃に変に思われているのではないかと、背中に冷たいものが降りてきた。 いや、別にやましいことはしていない。青年男子なら、誰にでも起こる生理現象だ。「あのさ……」「うん?」「今から、そっち行ってもええ?」 晃が遠慮がちに聞いてきた。明日の朝は八時から荷出しがはじまる。だから本当は
晃に「大切な話がある」と言われて、真尋はごくりと唾を飲み込んだ。緊張が走り、手先が急に冷たくなる。なにか自分がしただろうかと思い返すが、なにも思い浮かばない。どくどくと耳の奥で、血流の流れる音がやけに大きく響いた。「あのさ――」 真尋は息を呑んだ。次にどんな言葉がくるのかと、そのまま息を詰める。キュッと拳を握ると、自然に関節が白く浮かんだ。 晃の表情は、これまで見たどの晃とも違っていた。仕事モードでもない。ふだんのポンコツでもない。なにかをこの上ない真剣さで言おうとしている、覚悟の顔だ。「俺たち、一緒に暮らさへん?」 思いもよらない提案に、耳を疑った。「え?」「あ、急にごめんな。実は、付き合いはじめてからずっと思っててん。隣同士でもええねんけど……その、俺はずっと真尋さんと一緒にいたいねん」 晃は恥ずかしそうに首の後ろをかいた。「……えっと」 真尋はまだ晃の言葉を飲み込むことができずにいた。一緒に暮らす。隣人ではなくなる、ということだ。「いや、その、今すぐってわけやないねん。っていうか、一緒に暮らせたらええな、って思っただけやし」 晃は慌てて両手を振った。 一緒に暮らす。言葉を小さく口のなかで転がすと、その意味がじんわりと胸に染みこんでくる。 仕事に行く前も、家に帰ってからも、晃が家にいる。お互いの家を行き来する必要がなくなるのだ。いや、隣同士なのだから、行き来はそんなに手間ではない。けれど、すぐに会いたいとき、一分一秒も待てないとき、待たなくてもいい。いつも晃がそばにいる。「好き」と言いたいときに隣にいて、抱きつきたいときには抱きつける。そして触れ合いたいときにも、手の届くところにいる。 こんなにも真尋は独占欲が強かっただろうか。自分らしくいられる晃の隣は、居心地がいい。自分の重い気持ちも受け取ってもらえるのが、心地いい。 響と付き合っていた三年間、真尋は同棲の話を一度もしなかった。したいと思ったこともなかった気がする。一緒に暮らしたら、自分の重さが
オーナーからのゴーサインが出た。真尋は早速、颯太に手伝ってもらいながら店のSNSを作成し、イベントを告知した。晃のアイデアは、真尋が書いたPOPをSNSに投稿することだった。真尋はそんなことでいいのかと半信半疑だったが、予想を上回る反響に驚いた。『なに? このイベント! 神!』『参加したい!』『気になる!』 次々とコメントがついて、たくさんの人が真尋のPOPを見てくれているのだと思うと、真尋は胸が熱くなった。書店員になってからずっと、夜中に下書きをしては書き直してきたあの一枚一枚の紙が、こうしてはじめて遠くの誰かの目に届いている。それが、不思議で、うれしくて、すこしだけ照れくさかった。 真尋は片桐にも同じ原稿を渡し、月虹のSNSでも告知してもらった。月虹には相当数のフォロワーがいるので、すぐに反応があった。バーの常連客が投稿を拡散してくれて、瞬く間にイベントの告知は広がっていった。 月虹のSNSでは、イベントの告知に加えて、座談会の登壇者も募集した。すると、おもしろそうだから出てみたい、とセクシュアリティをオープンにしているお客さんから連絡が入った。 ありがたい。事前にこれほど反響があるとは思っていなかった。できるだけ多くの人に座談会で話してもらいたいが、人数が多すぎると話がまとまらず、せっかくの企画が台無しになる可能性もある。 月虹の定休日に、真尋、晃、片桐、颯太の四人で会議を行った。会議といっても、ただみんなで集まって飲んでいるだけなのだが。「片桐さん、お客さんでこの人なら大丈夫っていう人、このなかにいる?」 真尋は、月虹のSNSのコメントや個別メッセージで立候補してくれた人たちのアカウント名を見ながら、片桐に聞いた。真尋には誰が誰だかさっぱりわからないし、実際に接客している片桐のほうが、その人となりをよく知っているはずだと思ったからだ。「んー、せやな。けっこうみんなどぎついこと話してくれるとは思うねんけど。真尋さんはこの座談会、どんな感じにしたいん?」「BL小説や漫画が好きな女性がターゲットだから、できるだけ内輪受けにならない方向で行きたいんです」
「オペレーション・グッドネイバー」という言葉が片桐の口から出ると、晃の様子が一気におかしくなった。晃は必死に阻止しようとしていたが、片桐は風に揺れるのれんのように、のらりくらりとかわしている。「もう、ええんやって。真尋さんと付き合うことできてんから!」「せやから話すんやんか。暴露したほうが楽しいやろ?」「裏話は話さへんからええんやんか」「いや、それはちゃう。知ってもらうことで、その内容の奥深さを理解してもらえるんや」 よくわからないが、片桐と晃がやいやい言い合っているのを見ると、そのオペレーションに相当気合を入れていたのだろうと思えてきた。 月虹のカウンターの奥で、間接照明がアンバー色の光を揺らしている。今日は店の定休日だ。普段ならカクテルの注文が飛び交うこの空間に、今は四人しかいない。テーブルに置かれたタパスの皿はおおかた空になり、グラスのなかの氷だけが、ちりっと小さな音を立てる。 颯太はひとり、静かに酒を飲んでいる。いつもなら真尋に害が及ばないよう、周りに目を光らせているはずだ。だが、今夜は様子がおかしい。それに、いつもなら「オペレーション・グッドネイバーってなんだ!」と食ってかかるはずなのに、今夜はおとなしくグラスを傾けている。それも気になる。「颯太、なんかあったのか?」「なんでだ」「いや、なんかいつもと違うっていうか。だいたい晃さんのこと、あれだけ警戒してたのに、今はそれもなくなったから」 颯太はカクテルグラスの縁を指でなぞった。「うん、まあ、いけすかんやつだが、真尋が好きになった相手だしな。それにまあ、いろいろ話を聞けば、悪いやつじゃなさそうだし……」 なんとなくいつもより歯切れの悪い返事を不審に思ったが、真尋は「そっか」とだけ返した。「ことの発端は、二年ほど前のことです」 片桐がまるで講談師のように語りはじめた。張り扇がないので、代わりにパン、と手でテーブルを叩く。「ある日のことでございます。一ノ瀬晃は、街の本屋さんに、ふらりと立ち寄ったのでございます。書店の名は――







